愛のある行動の目安は「奇跡衝動の歪曲」にある

〜奇跡講座〜私の愛の理解と奇跡の神楽

今、私がやっていることは正しいだろうかと不安になったとき、奇跡講座は素敵な目安を教えてくれました。

それが前にも触れた「奇跡衝動の歪曲」にある「神の子よ、善なるもの、美しきもの、聖なるものを創造するために、あなたは創造された」です。

コースの中でも特に分かりやすい判断の目安だと思います。

辛くなったり、しんどくなった時に、あなたがやることは「良いと思える事をやれば良い」と教えてくれています。

あなたが「素敵だな」「きれいだな」と思えるものを生み出せば良いということでもあります。

絵を描いたり、写真を撮ったり、アクセサリーを作ったりしても良いでしょう。

心が惹かれるような作曲をしても良いです。

大事な事は受け身ではなく、「あなたの内側から動き出していくこと」です。

難しく考えてしまう時は、海や川に行ってゴミ拾いをするのも良いですね。

頼まれてもいない、何だったら「なに勝手にやってんの?」言われてしまうことだってあるかもしれません。

良かれと思ってゴミを拾っても誰も見ていないような気もするでしょうし、面倒だと思います。

それでもあなたの中で「ゴミを拾う」は善意の行動です。

誰も見ていなくても、あなたはあなたの行動を見ています。

誰がなんと言おうと、あなたの中で善意が生まれている状態です。

善意はコース的に言えば「愛」を表しています。

そして、愛を伴う行動は奇跡になります。

だから、奇跡は日常に溢れているのです。

そして、奇跡は「あなた自身が生み出しているもの」でもあります。

奇跡講座が素敵なのは、これを明確に定義し教えてくれていることです。

「私がやったことなんて大して意味も無いし、人の役に立つものでも無い」と自虐的に感じてしまう人がいるかもしれませんが、奇跡講座はそれを明確に否定してくれています。

あなたがどう思おうと、あなたが善意で行ったことは、愛の表現であり、それは奇跡だと定義してくれているのがコースです。

「愛のある行動」なんて大層な言葉に本当は意味はありません。

愛は日常であり、奇跡も日常だからです。

ただ、普通は意識していないから、ちょっとしたことで自分の想いに振り回されたり不安になったり、罪悪感を感じたりして辛くなります。

愛も本当は意識も無意識も無いのだけど、自我の世界に生きていると区別してしまい分からなくなっているので、敢えて「愛」を意識します。

それが冒頭の愛のある行動のことですし、善・美しい・聖という部分に言い表されているとお話しました。

人は目安があると、意識をそこに寄せることが出来ます。

人はどうしたら良いかが分かると、たどたどしくても徐々にそこに向かっていけるようになっています。

ゴミを拾えば、心が暖かくなります。

ゴミと一緒にあなたの愛も感じてるからです。

たとえそれで何かを言われても、「愛」がそこにあるのだけは間違い無い。

ゴミ拾いは極端かもしれないけれど、ゴミ拾いと同じような「愛の表現」はいくらでもそこら中にあります。

その全てを「あなたは見ています」し、他人が何をどう言おうが「あなたの中にある愛は揺るがない」です。

恥ずかしくなって自我で愛を覆い隠すこともあると思います。

それはそれで良いです。

それでもあなたはあなた自身がどういう想いでゴミを拾っているかを知っています。

偽善と言われようが、あなたがあなたの愛に従って「拾っておいた方が良いな」と感じたのであれば、それが愛の行動であり、それが奇跡です。

この世界は幻想と言いますが、愛のあるものは全て真実です。

これが分かっていると、全てが「これは愛があるだろうか」と気になってきます。

常に真実に繋がるように生きようとし始めます。

常に愛であろうとすることは、常に幸せを感じる生き方です。

不安や欠乏、罪悪感は関係無くなります。

そこに意識を向ける意味もありません。

本質はあなたが愛である事を思い出すところにあります。

ゴミを拾うという善意にはそれだけの意味が存在しています。

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