コースをやっていてはまりやすいというか、都合の良い解釈になりやすいと想うのが、「全ては幻想」という言葉です。
目の前の画面も幻想、机も幻想、「そういう風に見たいと思っているから見えているだけの話」といった感じです。
視覚・聴覚・触覚のどれをとっても幻想なんだから、「悲しい」とか「痛い」と感じるのもおかしい話。
そうやって全てを幻想だと思うことで、この世界から抜け出そうとする姿があります。
で・・・抜け出せないと。
なぜ抜け出せないかが分からないと来るから苦しいです。
「この世界は実在しない」と強く意識し、思い込もうとするなら、それは抜け出せるはずがないです。
実際、この世界が幻想かどうか何て重要ではありません。
私がコースを読んだときに面白かったのは「この世界は愛だ」って言ってることがしっくりとしました。
前からこの世界は自分の自我が創り出しているという話をしてきていますが、自我で作り出しているのか、愛を通した自我で作り出しているのかで、全く違う世界になります。
自我は存在しない
自分で創り出したもの
愛は存在する
自分で創りだしたわけではない
だから、愛が根っこになっているものは、実在するんです。
コースに書いてあることをわざわざここで書いてもしょうがないのですが、「幻想かどうかは大事じゃない」ってところがポイントだと思っています。
この世は全て幻想だと思えば何か良いことがあるのかな・・・。
そんなことよりも、この世は全て「愛で創られている」と思考を巡らせた方が良いことがあります。
それは「心が暖かくなる」ことです。
いつも言いますが、人はきれいなものを見ると「素敵だな」って感じます。
人は優しさに触れると気持ちが緩みます。
人は優しくなると、暖かくなります。
「愛」を源にしたものは全て奇跡を起こすとコースに書いてあるとおり、愛は実在し、愛を通した奇跡も実在する。
それは実感としてみんなが経験しています。
ところが、ここに「自我」を単体で動かすと、メリット・デメリット、優劣で「考え」始めます。
あの人より良い物を持っている
この人より私の方が偉い
あの家より家が小さくて恥ずかしい
愛の後ろ盾がない自我は常に比較で存在しようとします。
愛の後ろ盾があると幻想の中にあるものを全て受け入れるんです。
「それも良いよね」って。
こっちの方が良いんじゃない?とかじゃなく、あなたが望むならこっちでもそっちでもどれでも良いよ
幻想は受け入れられると愛に変わります。
あ~、私は自分の愛を思い出すためにこの幻想を創りだしたんだな・・・と
コース的な考え方だとこうなるはずなんです。
そして、それが自然だということも分かります。
人は幸せであろうとすることが自然であるなら、存在の全てが愛であるということですし、無垢の子供をみれば既に証明されていることも分かります。
自我の中で幻想を肯定・否定しても答えは出ませんし、消えません。
だって、あなたの自我が幻想を生み出しているのですもん(笑)
でも、愛を通して幻想だというものを見ると、もし、幻想が存在するならそれは愛でしかないことも分かります。
言葉遊びのように見えますが、「幻想なら消えるはずだ」と思い込むのは違うよっていう話です。
思い込むかどうかなど関係無く、幻想の理解が進めば「幻想が大事かどうかじゃない」ということに気がつけます。
そして、あぁ、結局、愛を意識することが大事なんだなと帰結していきます。
愛が幻想を消してくれるのではなく、愛を意識し、感じ始めると幻想が見えなくなるというだけのことです。
そのためにも愛を持って行動をすると良いですし、「この意思や行動に愛はあるだろうか」と振り返る事が有効です。
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