TSさんとよく話をしていた事として「人は罪悪感を持っている」という話題があります。
私はこれが分からなかったんです。
奇跡講座を読む前なら「そうか~」って思ったのですが、奇跡講座を読むようになって「え?違うよね?」って話題にするようになりました。
罪悪感って言葉を発する人に出会ったときに感じるのは、「罪悪感を持っている」ではなく「罪悪感を持とうとしている」「罪悪感を感じることを大事にしている」感じです。
変ですよね。
「罪悪案を持っている」のと「罪悪感を持とうとしている」というのは根本的に違います。
だからTSさんと話が噛み合わないんです。
でも、TSさんは知識の造詣が深いので、私が「でも、それって自分で罪悪感を持とうとしているだけなのでは?」と話題を振ると、「確かにそうかも・・・」と。
コースにも罪悪感と向き合う的なことを書いてあるらしくて、そこにどっぷりはまってしまうことがあるみたいです。
奇跡講座の事を知らない人でも罪悪感・嫌悪感に覆われている人はいますが、奇跡講座をやり始めると更に強く認識する人がいます。
これが厄介だと思う。
私の理解だと「そもそも罪悪感に意識を向ける必要は無い」と思っています。
それよりも「自分の中にある愛」に如何にして気がつくかの方が圧倒的に大事じゃないですか。
だけど気がつきにくい・・・。
罪悪感を感じるならそれはそれで良いとして、罪悪感を否定する必要もないです。
罪悪感を感じている自分はなんてダメなんだ・・・と思う必要も無いです。
罪悪感が自我から作り出されているなら、自我を通して「罪悪感・・・それも良いよね」と受け入れてしまえば良いです。
罪悪感を悪いものとして理解するから苦しくなるのであって、罪悪感に良いも悪いも無いです。
ただ、感じてしまって苦しくなってるだけ。
苦しいのは悪い事と思うかも知れないけれど、果たして罪悪感を感じて苦しいのか、罪悪感を悪いものとして捉えているから苦しいのか、その辺も整理したいです。
人は本質的に幸せであろうとします。
私はよく思い出すんです。
赤ちゃんや小さな子供は「本質的に幸せの塊」です。
幸せになろうとすることもなく、幸せであろうとするわけでもなく、「ただ幸せの存在」です。
人は成長していく中で自我を学び、自我で生きていこうとするのでしょう。
結果的に「自分の本質」の上に自我を被せる作業になります。
そして、いつの間にか「自分が何だったのか」が分からなくなるんです。
そりゃあ苦しいと思います。
自分探しの旅とか昔流行しましたし、今は「生きる意味が分からない」みたいな人もいます。
これらは「自分の存在が分からなくなっている」からです。
そういう人がコースに出会えば、息を吹き返して、「これだったんだ!」となると思う。
ところが、まあ、そこで「まずは罪悪感からなんとかしなきゃ」と繋がっていくと、地獄の苦しさになるので厄介です。
単に「生きる意味が分からない」から、「罪悪感を解決すれば救われる」みたいになってるだけだからです。
これらは全て本質に被せてしまった自我なんだよってことが分からないと、自我をなんとかしようとします。
自我を何とかしようとするほどに罪悪感は増えます。
なぜ?
自我は「幸せには形がある」と思っているからです。
成功すれば幸せになれる
お金持ちになれば幸せになれる
結婚すれば幸せになれる
これが自我の価値観です。
本質の価値観とは「今が幸せ」です。
そこに何かあっても無くても関係無く、ただ「あ~、幸せだな」と分かるだけです。
当然罪悪感とかは無いし、生きる意味がどうのこうのもないです。
こういうのを具体的に理解させてくれるのが奇跡講座なんですよね。
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