TSさんと話をしている時によく話題に出ていたのが、何か辛いことや受け入れられないことがあったら「聖霊にお任せします」と聖霊に預けると言ってました。
聖霊に預けることで、解決の糸口を示して貰う感じです。
最初私はこれはすごいな~って思ったんです。
でも、TSさんと話していく中で疑問も出てきました。
TSさんはいつも「辛くなったら聖霊に預ける」と言ってたのですが、そもそも「なんで辛くなってるの?」と不思議なんです。
辛さを感じなければ、聖霊に預けることも必要ないし、人生も楽しいじゃないですか。
私自身も辛さを感じることがあります。
でも、聖霊に預けるとかしなくても消えていきます。
たぶん、やっている事はTSさんも私も同じことをやっているのだと思います。
何か起きても「愛を持って接する」だけだからです。
愛を持って接するとは、私なりの理解で言えば「私はこれに対して愛を持って接しているだろうか」と投げかけることです。
聖霊は愛そのものだと思っています。
だから、聖霊に投げかけるとは「愛に投げかける」と同じことなのですから、やっている事は同じです。
ただし、それを本人は理解しているかどうかです。
以前、Tさん(TSさんの旦那さん)とその話をしたところ「聖霊」を違う存在として理解している感じがしました。
全ては1つなのに、2つあるように感じるとそこにズレが生まれます。
そのズレが人によっては罪悪感になったりします。
コースに出会った最初の頃なら「聖霊の存在」は自分の外側にあるものと認識しても良いと思います。
全てが一つであると言われても戸惑うこともあります。
それなら愛を想い出すプロセスとして、「聖霊」を知ることはとても大切です。
それともう一つ大事な事がありました。
聖霊に投げかけたとき「答えが得られる」という話があると思います。
TSさんはこうも言ってました。
「聖霊が答えてくれたと実感出来るのことは少ない」と。
これが「自分の外」に聖霊を置いている弊害です。
聖霊に限りませんが、答えは常に提示されています。
聖霊に投げかけなくても、何かが起きたとき・起きなかったとき、答えと共に我々は体感しています。
ただ、気がついていないのです。
たとえばしんどいことがあった時、しんどいと感じた事そのものが既に答えです。
どうしたら良いか自分でも分かっています。
それが分からなくなってしまう理由は、「育て上げた自我が本質の理解を邪魔する」ためです。
本質の理解とは「人は本質的に幸せであろうとする」ことです。
幸せとは愛のことであり、愛は常にそこにあります。
愛を想い出そうとすれば、何が必要で何が不要かが明確になります。
これが最もシンプルだろうと思われる聖霊とのコネクションです。
自分が望む望まないに関わらず、答えは常に提示され続けている証拠でもあります。
コースには自分⇒聖霊⇒神といった感じで経路が明示されています。
一方で自分=聖霊=神とも明示されていたと思います・・・どこだったかな。
本質において、私たちは常に本来の姿で居ます。
自我において、私たちは常に必要な姿で居ます。
自我の中で苦しんでいる時に、私たちは便宜上、聖霊を通して本来の姿にアクセスするわけです。
本来の姿は常に愛であり幸せですので、そこにアクセスをすれば「どうしたら良いか」が分かるのは必然です。
なんども言いますが、コースをやっている人じゃないと「自我の理解」は難しい気がします。
自我は本質を包み込む作られた世界ということが分かると、「本質」を意識できるようになってきます。
自我を偽物の世界と思う必要はありません。
確かに自分の中で作り上げた世界ですが、自我を受け入れる事も愛を実感する上でとても役立つからです。
このお話はまた今度。
聖霊は常にあなたと共にあるのは当たり前です。
聖霊はあなた自身でもあるのですから。
ここを分けないことです。
最初は分からなくても良いです。
愛を感じようとし続ければ、自然と実感を伴うようになります。
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