罪悪感が強い人は罪悪感を強く感じるようにしています。
TSさんと話をしていても思うのですが、「どうしてそこまで罪悪感に意識を向けるのだろう?」と思うほどです。
罪悪感を感じることで何があるのかな?と思うのですが、感じてしまっている罪悪感をどうするかのほうが大事です。
私がTSさんにお勧めしたのは2つのアプローチです。
まずは「なぜ罪悪感を感じようとするのか?」と自分自身に投げかけることです。
これは一人でやるのは難しいと思うのですが、奇跡講座を進める上で「なぜ?」と自分に問いかけることはとても大事だと思います。
奇跡講座は愛を思い出すためにとても有益で分かりやすいマニュアルですが、書いてある言葉の力が強すぎて「自分がどういう状態にあるのか」を考える余裕がなくなっている気がします。
コースが「〇〇したら良い」と言えば、その通りにする。
それは良いけれど、その結果、起きた事・感じた事に対して「私はなぜそう感じるのだろう?」という自問も必要です。
「真(愛)なるもの」を理解しようとした瞬間に自我が生まれます。
この自我が「愛」であれば、本質と自我が重なりますのでコースの書いてあるとおり、愛に満たされるようになります。
罪悪感を感じても、本質と自我の力で罪悪感が愛にかわることも分かってきます。
罪悪感で潰されそうになっている時、罪悪感で絶不調になることがあれば、それは「罪悪感を自我で受け止めている」ということです。
これではいくら聖霊に「罪悪感はいらない」と願っても、「罪悪感が沸き続ける」という状態になってしまいます。
いえ、これ自体が聖霊の応えといっても良いです。
「罪悪感が沸かないようにならない」のではなく、「罪悪感が生まれ続ける」ということが「その受け止め方じゃないよ」と教えてくれています。
ここがすんなり分かれば良いのですが、自分の本質よりも自分の作り出した自我の力が強いと、どうしたら良いか分からなくなります。
人は本質的に「愛」であろうとすれば、自我を通して「愛」を感じられるようになります。
本質的に愛であろうとするための一つの方法が、「自我を一時的に排除する」手法を使います。
それが「運動」です。
身体も「自分が創り出したものであり幻想」という理解があるかもしれませんが、幻想かどうかが重要なのでは無く「自分が創り出したもの」がポイントになります。
この世は自分が創り出したものを通して、愛を思い出すフィールドとも言えます。
その中で意識の上で罪悪感にさいなまれているのであれば、「意識外」で罪悪感を消してやれば良いです。
この場合の「意識外」が「身体を使う」です。
きつい運動になればなるほど、意識が外れていき、身体の動きに専念していきます。
この時に罪悪感が薄れます。
罪悪感に潰されそうなときは、この「罪悪感が薄れる」というのがとても大事になります。
罪悪感が薄れるとは「自我が薄れる」ということでもあります。
自我が薄れるとどうなるかというと、本質を感じやすくなるってことです。
本質にアクセスすることなど簡単な話であり、本来、本質である「愛」は常にそこにあります。
アクセスするとかどうとかはないのだけど、罪悪感にまみれて本質が分からなくなっている状態だと「あるのにない」みたいになってます。
だから、運動によって罪悪感を薄くしていくことで、恐怖感が消えていきます。
運動によって罪悪感が完全に生まれなくなる・・・というのはないかもしれませんが、罪悪感に対処が出来る様になる一つの手法です。
罪悪感が生まれてきたとき対処法が分かっていないと、自滅します。
それほど罪悪感は心地良く、自虐を生み出すのです。
でも、罪悪感は自我が作り出した一つの幻想である事は、コースをやっている人は誰でも知っているし理解していると思います。
それにも関わらず罪悪感に振り回される人が出てくるのは、「罪悪感が必要」と思ってしまっているためです。
自分の愛を思い出す上できっかけとして必要な人もいるのかもしれませんが、罪悪感を持ち続ける必要は誰にもありませんし、罪悪感そのものが必要のないものです。
罪悪感は必要のないもの
これが分かる事で自分への問いかけも変わります。
「私はなぜ必要のないものを持ち続けようとしているの?」と問いかけられます。
自分の中を掘り下げて行けば、その先にあるのは「あなたの愛」です。
あなたの愛があなたに罪悪感を感じさせようとするわけがないです。
ここに気づくために、一時的にでも良いから自我から罪悪感を切り離し、あなたの本質(愛)と繋げます。
すぐに出来なくても、「あなたの中にある愛」を意識し続けることで、出来る様になっていきます。
あなたがあなたの愛を意識し続けると、あなたの愛があなたの自我を作り始めます。
その頃には罪悪感に責められるような状態は無くなり、罪悪感が生まれても消えていくようになっています。
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