最近、「祈り」に関して知る機会がありました。
私の「祈り」の理解は「奇跡を起こすこと」だと思っています。
奇跡を起こすとは、奇跡講座に書いてあるとおり、「愛を持って行動する」だけです。
この「愛を持って行動する」は自分自身の根源で有り続けるために必要であると共に、今必要な事にも気がつかせてくれます。
ちなみに「愛を持って行動する」っていうのは難しい話じゃ無くて、私的には「やさしくする」が目安になります。
たとえば、ゴミが落ちてたら拾うとか
たとえば、買い物をした時にレジの人に「ありがとう」と言うとか
たとえば、急いでいる人に気がついたら道を空けるとか
これらは気遣いで有り、配慮でもあります。
大したことはありません。
でも、奇跡の原理では「すべての奇跡は同じである」と書いてあります。
全ての奇跡は同じと言うことは、愛を起点にした奇跡はそれに大小はなく、すべてが愛で有り奇跡であると教えてくれています。
そして、最も大事だと思うのは「自分の中に優しさ(愛)が満ちてくる」ことです。
人は本質の外側に自我をまとっているという話を前にしました。
私はこの「自我」というものが、愛の表現媒体だろうと思っています。
本質にある愛を自我を通して発現し、満たしていく役割を持っている感じです。
だから「愛を持って行動する」ことを意識すると、常に自分の中にある本質的な「愛」にアプローチし、感じようとしていることと同じだということも分かります。
幸せの実感がある人は幸せになっていきます。
こういう感じに理解していると「祈り」に対しても、アプローチの仕方があることが分かります。
「○○のために祈る」というのがあります。
これが「祈り」の最終形?だと思います。
他者の幸せを祈ることは、自分の中にある愛の表現であり、祈りそのものが奇跡です。
私の「祈り」の理解は、自分で愛を持って行動してなんぼじゃないの?と思っていましたが、あぁなるほど。
こうやって言葉にしてみるとよく分かります。
「あなたのために祈ります」ことそのものが、愛を引き出し奇跡を起こしているんだなと。
祈るときに何が起きるかと言えば、自分の本質である「愛」に意識して接続している状態なんですよね。
自分の「愛」に接続し、祈りという形で奇跡を起こすプロセスは「愛を感じられる」結果をもたらします。
「祈るだけで良いの?」ではなく、「祈ることも大事」なんだなと理解しました。
人は「自分は愛である」ということを理解するために、あの手この手で愛を確かめていくのだと思います。
愛は不変で常にここにある
でも、まとっている自我のお陰で愛が見えなくなっている
だからどうしたら良いか?というのが世界中で模索され、一つの形としては宗教が有ります。
これもTSさんと話をしている中で気がついたことですが、宗教で無くても、実は常に答えで満ちあふれていることに気がつきました。
自我の世界は「あなたは愛だよ」と常に教えてくれてるんです。
なぜそう思うかと言えば、「愛を持って行動し奇跡を起こす意識」を持つと、全てが「愛に気づかせよう」としていることが分かるからです。
道を譲る
ただこれだけの気遣いだけど、それは「愛」がなければ出来ないです。
ここに気がついた時、あぁなるほど、この世界(自我)は愛を想い出すためのフィールドとして構成されているんだなと分かりました。
だから、いろいろなことが起きたとしても、それは「私が愛を想い出すために必要な事」というのも分かってきます。
なぜこんな事が起きるのだろうか・・・と悩むこともあると思います。
でも、実はそれが自分が愛を想い出すためだって分かると、「そうか、これに取り組んだら良いんだな」という答えまでセットで気づかせて貰えます。
話が逸れましたが、「祈る」というアクションの中に「愛の形」があるので、幸せでいるためにも「祈り」が力になってくれることが分かりました。
というか、まあ、わざわざ「祈る」と言わなくても、誰かの事を思えば、それは祈りなのですから、難しく考えなくても良かったっていう話でもありますね(笑)
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