この投稿をした後も相変わらず本文内で出てくる「バラード」を聴いています。
何も知らないで聴いてしまうとすぐに画面を閉じちゃうと思うのは、今でも同じです。
ただ、4月27日~29日までつくば市に行っていた時に、たまたま何かのクラシック音楽が耳にする機会がありました。
なんだか分かりませんが、すごく音に深みを感じて聴くことが出来たのは、ちょっと感動。
バラードって曲は本文で出てくる武史さんのお話によると、たぶん「世界」を音にしているのだと思うのです。
だから全ての原点みたいになると思うんだけど、全部妄想(笑)
聞こえているはずなのに、聴き取れていないことがもどかしく、5月に入った今日も相変わらず聴いています。
それでは本文をどうぞ↓
今回のお話は、芸術をテーマとして、あなたの周りはあなたが幸せで居られるようなメッセージで溢れてるよっていうお話に・・・したい(笑)
動画を用意しました♪
私自身は芸術の教養がないのでよく分からないのですが、アーティストの海沼武史氏(これまでの投稿でTさんと呼んでいた人です。武史さんって呼んでるので、以後、武史さん)(武史さんが一瞬だけ登場する投稿1・2・3・4)とやりとりをしていく中で、「内田君の芸術の話をブログに載せてみてよ」と振られたので載せます。
武史さんは音楽から始めて、その後写真もやるようになり、キャリア数十年のアーティストです。
昨年の千代田稲荷神社さんのご縁から繋がり、昨年9月からいろいろと話をするようになりました。
私はあまり特定のジャンルに興味・関心を持たないのですが、誰かと一緒に居る時はジャンルに関わらず「話を聞く」を大事にしてます。
そういうことには関心があるようで、楽しくもあります。
武史さんと出会ったばかりの頃は音楽とか写真の話じゃなくて、精神世界の話?みたいなところから入ってました。
いろいろと伺っていたら「あぁ、アーティストって見えない世界を形にする人なんだな」って思うようになったのです。
アーティストと呼ばれる音楽家でも写真家でも画家でも、きっとどのジャンルでもそうで、アーティストが生み出す芸術を通して、見えない世界を見える様にしてくれる人種みたいな?
だからか、芸術を創る人が何を見て感じようとしているのかが、すごく大事だと気がつきました。
あまり関心がない世界だけど、そんな気がするんですよね。
光を見せてくれるアーティスト
武史さんは昔から「光」をテーマとし、写真にとらえています。(昔の写真を見ているとそうとしか言えないから)
最近の写真は特に分かりやすくて、「あぁ、これは光が分かりやすい」と素人の私にも分かるほどです。
下のInstagramで画像が見えていたら、右にスライドした2枚目(一番上の写真と同じ写真になります)を見てください。
※ちなみにスライド前の今見えているピンク色の花は「におい椿」だそうです。
その写真はこれまでの写真を更に洗練したもので、武史さんの世界が変わったというか、ステージが変わったんじゃないかと感じさせるほどのものです。
最近の武史さんの写真で特に「あぁ、素敵だ。光がよく見える」と伝えた写真↑です。(スライドした2枚目)
・・・だれ目線なんだろ(笑)
私がいう「光が見える」とは、写真に写っている梅の木や花の向こうにある世界、写真の向こうの世界のことです。(スライドした2枚目の白い花の写真は「さくらんぼの花」だそうです)
何を意識し何を写してきたかを伺っていく中で、武史さんの写真にはいつも光があふれていることに気がついたんです。
ただの私の妄想かも知れないけれど。
そんな武史さんは昔から「一瞬の光」を求め続けていたそうですが、実はいつも光は武史さんと共にあり、それに武史さんはずっと気がついていなかったことが分かりました。
手に持っているのに持っていないと泣いている子供のようです。
知ろうとすると世界が変わる
武史さんとの会話でよく話題に出ていたことに、「芸術家は語らない、作品について語るのは粋じゃない」って言ってました。
そんな武史さんに「言わなきゃ分かんないし伝わらない」と言っていたのが私です(ホント誰目線だろ(笑))。
まあ自分から語らないなら私から聞けば良いのですから、あれこれ聞いてます。
私は写真にも音楽にも特別な関心があるわけでもない無関心な人ですが、目の前にアーティストが居て話してくれるなら、それはやっぱり伺いたくなるわけです。
ただ、武史さんって語らない習慣が身についているので、聞いても「分かんない」って言うんですよね(笑)。(これって私が相談者さんに「どうしてそう思うのですか?」と伺ったときの反応によく似てる)
分からないと言いつつ、考えて掘り下げてくれる
昨年の9月、私が武史さんと会話をするようになった頃の武史さんは「写真も音楽も次が見えてこないんだよね・・・」的な話をしてました。
武史さんは手探りで光の見つけ方をずっと探してた、そんな人だと私は見ています。
でも、武史さんはずっと光をとらえてたんです。(本人にも伝えています)
ポイントを絞り意識して見ようとすれば、素人の私にですら武史さんの写真の中に光が見える様な気がするのですから、そこにあるんです。
そういえばこの時期ぐらいからだな~、なんか色々と見える様になってきたの。(霊視とかじゃ無いよ)
武史さんの話を伺っていく中で、武史さんの軸となるものを意識しながら写真を見たり、音楽を聴いたりすると、その先にあるものがなんとなく分かるようになってきたんですよね。(たぶん妄想?)
気のせいかも知れないけれど、何事においても必要なこととそうでないことがハッキリ浮かぶようになってきたんです。
武史さんの写真や音楽はそういう感じに導いてくれる気がします。
芸術家は感性を通して世界を形にするじゃないですか。
だから、見て感じろ・・・みたいに言うの(笑)
これたぶんね、芸術家自身も作品を言葉にしてこなかったから、分かんないんだと思う。
だから私みたいな人間が美術館に行くと、1.絵を見る⇒2.絵の題目を見る⇒3.次に行くってなるの(笑)
分かんないんだもん。
アーティストの背景が作品と世界を繋げる
アーティストの作品は、どんな世界(アーティストの背景)を通して形になったのかというガイドが無いと、何を見たら良いか分かんない気がします。
作品が良いかどうかって、たぶん主観ですよね。
でも、作品の先にある「世界」に良いも悪いもない。
芸術が好きな人は自然と理解出来る事も、私にそのセンスは無いので分かんない。
形になった芸術、見えている「芸術」の中にこそ、本当の姿があるだろうと思います。
それが作品の先にある「世界」
その姿を言葉にするのは難しいけれど、感覚的にすとんと受け止められる、そんな世界と繋げてくれるのが芸術の気がします。
武史さんが「芸術の意義について載せてみてよ」って言った元になった内容の概略がこちら↓
最近、感じるのは、「芸術」は取説なのだろうなという感覚です。
「芸術には本質(美の創出)がある」
これをを知らないと難しい。
芸術家の多くは無意識にそこに気がついているからこそ、本質を形にして創り出そうとするのだと思います。
最近、私が試行錯誤しているのが武史さんが形にした「バラード」という曲です。
バラードを渋谷の町の中で聴いていると、私の存在が希薄になる感じがし、見えている世界が崩れようとする感覚がついてまわりました。
高尾山で聴いたときには自分の存在が希薄にならず、風景も崩れそうにならなかったんです。
バラードにはステレオグラム(平面の中に立体が存在する)の予感があり、本当の姿があると感じさせます。
さぁ、ここで出てきました「バラード」がこちらです。
映像では無く「音楽」に意識を向けてください。
大抵の人は衝撃を受けるというか、不安を感じると思います。
最初から心地良く聴ける人が居たらすごいな~。
この曲を心地良く感じたら、この曲の本質が聞こえています。
この曲は「存在の本質」にアプローチをしてきます。
だから、普通の人がこの曲を聴くと「不安」を感じると思います。
この曲は特に「ガイド」になり得るだろうと思っています。
何のガイドか?
この曲はあなたという存在自体に揺さぶりを掛けてくるので、あなたの中にある本当に大切なものだけが心の中に残るようになっていく、そういう意味でのガイドです。
だから、聞くときは意識して音の向こう側を感じとるつもりで聴くと良いです。
曲?曲なのかな(笑)
まあ・・・気持ちの良い曲ではないですよね(笑)
今でもまあそう思ってます(笑)。
アーティストは「理ことわり」を通して作品を作ってるからこそ分かる事
この曲は本当分かんない。
曲を理解をしたいわけじゃないですし、武史さんの意図を知りたいとかそういうのでもありません。
ただ何かがあると感じさせてくるのに、何があるのか分からない事がもどかしい。
もしかしたら何もないのかもしれないけれど・・・。
武史さんに「この曲が作られた当時の背景はどんな感じなんですか?」って聴いたら、「気がついたら形になってた・・・」みたいな返事でした。
そんな中で先日、(武史さん)「なんでこんな感じで曲を作ってたのかな~って考えてたら思い出したよ」という言葉の先に出てきたのが「植物界の響きを音で表現していたんだな、と。」だそうです。
これが武史さんの「曲を生み出す」時の本質です。(写真も同じです)
これが見えない世界を見える世界に顕現させるアーティストの力だと思います。
私にとって絵は絵でしか無く、写真は写真でしかなく、音楽は音楽でしかありません。
でも、そこに芸術が生まれるまでのストーリーが湧き出てきたとき、芸術が本質へのガイドに変化します。
本質のガイドとは、要は「幸せに気づき、幸せを感じとるためのアンテナ」みたいなものです。
だから本質っていうのは「幸せそのもの」ということでもあります。
武史さんが「それまでアートに対して無関心だった人でも、自己省察を積んで来た人には、いくつかの言葉を投げるだけで、ストンと作品の真意を汲み取る、掴んでしまう。これは君と出会って予感していたことだけど、それが僕の中で明白になった気がして、そこは単純に嬉しい。」と言ってました。
武史さんがいう「作品の真意」って何かなって思います。
私の中での「作品の真意」とは、「世界の形」だと思っています。
世界に形は無いけれど、アーティストを通して生み出された作品が、世界を一つの形にしているのだろうと思います。
こうやって書くと何を当たり前なことを言ってるのかなってなる気がします。
それが写真であれ絵であれ音楽であれ、大事なのはその先にある世界観に気づくこと。
芸術は見る人・聞く人に様々な印象を与えますが、意識して「作品の先を感じよう」とすると、世界は応えてくれます。
ただ、「意識」して感じようとしないと、センスが無いと分からない・・・。
私には興味もないしセンスも無いけれど、意識し掘り下げようとしたことで、世界が応えてくれていることが分かりました。
この「世界」とは全てが持つ「本質」の事であり、それは光とも愛とも、そして幸せとも言えるような、言葉に出来ないけど全ての人が無意識に感じていることです。
芸術はそこに意識を向けることで、意識的に感じさせてくれる存在でしょう。
たぶん、そういう私の姿を見て、武史さんは「何も知らない人が(芸術を通して)見ている世界」に何かを感じ、「この間の話を載せてみて」みたいに言ったのかな。
まあ分かんないけど(笑)
なんでこんな話をしたのかな?と思います。
ただ、気づこうとしよう
意識しよう
見えない?
実はあるんだよ
ずっとあなたの手を引いてくれてるよ
あなたの周りにあなたの幸せが居てくれる
そういうもんなんだって知っておいて欲しい
知ってさえいてくれたら、自然と分かるようになります
それはいつかな?
今かな?
明日かな?
楽しみですね。
そんな楽しみ方を武史さんが教えてくださったので、あなたにもお裾分けです。
でもまあ、バラードはよく分かんないけどね(笑)
いつかバラードが見せてくれる世界に期待しているところです。
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