写真の中には見えない世界がある気がする

世間話

先日、久々に八王子の裏高尾にある千代田稲荷神社さんに行ってきました。

昨年に比べて訪問頻度が少なくなっていますが、行ける時にこつこつ伺ってます。

いつ行っても楽しい場所です。

今回は道中で熊手を買いたくて、高尾から千代田稲荷神社さんまで歩いて行ったのですが(大体40分ぐらい?)、途中の雑貨店に熊手はなく、泣きながら歩いて行きました(笑)。

熊手を買う理由は熊手の歯が欠けてきたからです。

前の熊手は柄をへし折りました。

今回は1年ぐらい使って紫外線劣化と言いますか、もろくなっていて熊手の歯が何本か折れまして(笑)

今回は買えなかったので、また近いうちにどこかで手に入れて行こうと思います。

落ち葉の季節になったので、熊手があると楽です。(普段はブロワーで吹き飛ばしてます)

行かなきゃな~と思いつつ、思いつきで高尾に行ったのですが、いつもお世話になっている海沼家に高尾駅の風景を送っておきました。

高尾駅の印は何も写しませんでしたけど(笑)。

「高尾に居るみたいだね」って連絡が来て、「帰りに寄りな~」と声を掛けていただいたので、寄りました。

まずは目的地の千代田稲荷神社さんですが、誰かが来てきれいにされてます。

こんな感じ↓

ひっそりとたたずむ神社なので、人が訪れる事のほうが珍しい場所です。

裏高尾の蛇滝ルートから高尾山に登る人でもスルーします。

その中で参拝される人なので、来る人は登山客か常連さんです。

参拝する人に特徴があって、油揚げを祀っていく人、50円のお賽銭をたくさん祀っていく人、お酒を祀っていく人たちがいます。

お供えを下げていない時は、私が行くときは私が下げています。(今回はお供えはなかった)

50円のお賽銭の人の分はお賽銭箱にまとめて入れたりしてます。

曇り模様だったので全体的に暗い感じでしたが、それでも落ち着いた良い場所です。

弘法大師の石像の首が劣化で落ちたようで、積み重ねて石像の上に置いてありました。

今度、補修剤を持って行って補修しておこうかな。

時の流れで姿が変わるのも素敵だよねってつくしさんが言ってました。

最近の私の流行は目の前の現象(姿)よりも、その中にある弘法大師の石像を作った人の想いに意識を向けています。

何を想いながら石像を造ったのだろうか・・・。

石像の向こう側に何かが見える気がします。(もちろん妄想です)

結果的に補修はせず、積み重ねたままにしています(2025年2月現在)

その後、海沼家に遊びに行きましたが、ついに完成した写真集を受け取りました。

「出来たよ」と渡して貰った写真集の他に、「これも持って行って」と受け取ったものがあります。(このお話はまた今度)

想いを受け取るのって苦手です(笑)

写真集をきっかけに写真の話になったのですが、面白い話になりました。

写真は目的なのか手段なのか

写真を目的にした場合は、きれいな写真ほど評価されることになります。

きめ細やかなところまで再現出来る高額な最新のカメラで撮り、きめ細やかなところまで再現出来る高額な最新の印刷機を使って印刷する。

その結果、この世界に形として出てくるものは実物と見まがうほどの写真であり、高い評価に繋がります。

写真が手段の場合は、印刷された物ではなく「何を撮るか」になります。

写真を撮ることを目的にした時も何かを写すための手段にした時も、「撮る」という行為自体は同じです。

それにも関わらず、写っているものが違いが出ます。

写真がきれいかどうかではなく、その写真から感じられるもの、感じやすいものの話です。

見えているものだけを見るなら、きれいな写真が評価されやすく、そのために必要なのは高性能のカメラと印刷機です。

全員が高性能の機材を持てば、後は「何を写し出したか」になります。

全員が同じ場所から富士山を撮っても写るものが違うのはなぜか?という疑問に対する答えかもしれません。

同じはずなのに見える世界・見えている世界・見せてくる世界が違う。

見えている写真から違いが浮かんでくるには、写真と対話をするからだと覆います。

これが写真の奥行きに繋がっています。

奥行きの世界とは世界の本質に触れる事を意味します。

私が思う本質とは「人は幸せであろうとする」ことであり、「幸せとは存在そのもの」です。

だから奥行きの世界が本質であるなら、そこにあるのは「存在そのもの」になります。

写真がきれいかどうかは写真との対話をやりやすくしてくれるメリットがありますが、「きれいな写真だな」と素通りすることもあります。

撮影されたものは世の中に溢れていて、本当はすべてに「奥行き」があり、そこに「存在そのもの」があります。

「花」の写真があったとして、写真に写っている一枚の花は見えている部分だけを言えば「花」です。

その「花」の奥行きを見ると、「花」には季節があり、育った場面があり、切り取った人が居て、その人の想いもあり、選ばれた花でありつつ、今この瞬間が写真になっています。

しかも、写し出した人そのものにも写すに至った経緯があり、状態があり、想いがあり、そして、瞬間があります。

写真は一瞬を見せてくれているように見えて、そこには世界のすべてが写し出されているのでは?と考えるようになってきました。

ただ、普段はそんなに気にしていないから、「きれいな写真だな」ぐらいで終わりです。(笑)

武史さんやつくしさんと話をした時に、私は「写真集を買う意味が分からなかった」と言いました。

写真は写真でしかなく、一度見たら終わりじゃん・・・みたいな。

絵も似たようなもので、きれいだねとか素敵だねというのはあっても、わざわざじっくり見たい?みたいに思っていました。

だから、美術館や博物館に行く意味がよく分からなかったです。

楽しめるだけの教養がないと言えばそのとおりですが、実際にそうなのだからしょうがないです。

ただ、写真の向こう側、絵の向こう側を気にし始めて、分かってきたことがあります。

それが写真集の中も世界があるんだな~と。

先日、富士山の写真を撮りためていた人の写真集を見る機会に恵まれました。

写真集を一枚ずつじっくり眺めていくうちに浮かんでくるものがあることに気がつきました。

浮かんできたのはその写真を撮っている人の姿です。

富士山を撮っている様子、想い、その想いの動き、そういうのが浮かんでくるわけです。

もちろん妄想です。笑

妄想な上に会ったこともない人だけど、この写真を撮った人はこんな想いで撮ってたんだな~と感じたり、その人の姿そのものが浮かんだりします。

これか(写真集を手に取る理由)!と気がついた瞬間です。(勘違いの可能性も大です(笑))

写真集はもちろん写真を見るものだと思いますし、それも楽しい・・・のかな。私にはよく分からないです。

ただ、見えている部分の先にはもっと素敵な世界が拡がっている姿を見るのは楽しいです。

写真集が好きな人はこういう世界を見てるんだろうな~と考えたりします。

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