「相手に何かを言いたい時」自分を縛る何かから解放しようとしてくれていることに気づく

この世界は自分のためにある

言い方は様々ありますが、一つの表現としてこの世界の導きは本当にうまく出来てると思っています。

タイトルの通りですが、「相手に何かを言いたくなる時」があります。

私にもあるのですが、時に、私にとって受け入れがたいところを突いてきます。

特に私の場合は善意に弱いです。笑

他者から見れば「え~、良い話でしょ!」っていう内容です。

それが何らかの理由で腰が引けます。

いえ、腰が引ける時もあれば、「そんなのだめだ」と否定することもあります。

そうであっても他者から見れば「え~~、良い話なのに!」という内容です。

本当に良い話なのかどうかは、他者目線の時に分かりやすくなります。

良い話なのに遠慮したり否定するような感じになるのは、こちら側の弱みを突くような話だからです。

相手が無理をしてこちらに尽くしてくれようとしている気がするのです。

人による話ですが、私の場合はこういうところを突かれると弱いので、遠慮をしたり「そういうのはしない方が良い」みたいな感じで否定したりします。

私には昔からそういう傾向があったのですが、今年は「とにかく受け入れる」をテーマにしているため気がつきました。

それが「あ、これ自分を縛っているものから解き放とうとしてる」と。

なんだかスピリチュアルっぽい感じですが、特段そういうのはないです。

ただ「受け入れる」をテーマにしている私に対して、「〇〇した方が良い」「〇〇でなければならない」と感じさせるようなことが明示されているのです。

ほんとうまく出来てます。

こうやって「自分に制限を掛けていること」に気づかせようとしてきて、実際に気が付いたわけです。

しかし、今回は何度も「受け入れる」にあと一歩届かないのです。

受け入れた方が良いと分かっているのだけど。

自我や感情が「制限の必要性」を前面に出してきて、私に対して正当化してくるのです。

自分に制限を掛けることは、結果的に自分を通して周りにも制限を掛けることになります。

そうするとそこで動けなくなります。

それが「正しいように見える」ので厄介です。

でも、本当はそこに気づくことこそが「今の自分に必要な事」だと教えてくれています。

何を気づかせようとしているかと言えば、「ただ受け入れなさい」です。

ありがとうでも良いし、分かりましたでも良い。

すべての事情も背景も理由も関係ありません。

それが起こった事・提示された事が「今はそれを受け入れる時」という回答です。

分かってたんだけど、う~~ん。

絶妙なところを突いてくるために、つい遠慮したり、反発したり、拒否や否定をしたり・・・。

もっと明確に意思を持つ必要があるのだと思います。

はっきりと「私はなんでも受け入れる」と。(スピリチュアル要素は無いです)

感情が入る余地があるところを突いてくるので要注意です。

感情は本当に自由に活動しますし、私の意思と関係なく全てに影響しようとします。

「感情の自由さ」を厄介だと感じてしまうけれど、でもまあ感情は自由で良いと思います。

自我もそうだけど、自由にやれば良い。

彼らを制限するとか抑え込むとかすれば、彼らはもっと強く自己主張しもっと強い存在になろうとします。

彼らに何かをさせるのではなく、彼らはただそこにあれば良いようにだけしておきます。

そして「自分の意志」については、「受け入れる」とセットしておきます。

一応、私自身そうしてるつもりだったけれど、隙を突かれました。

私を今の場所にとどめようとする力をついつい受け入れてしまったんですよね。

それが正しいと思っているから厄介です。

提示されている事象を「受け入れる」はずなのに、私はそこにとどめようとする内なる感情を受け入れたのです。

同じ「受け入れる」でも結果は大きく違います。

この「受け入れる」の先にあるのは世界との同化です。

理屈上、この世界はすでにすべてを受け入れているはずだからです。

いつでもどこでも、すでにすべてを受け入れていると考えられます。

見るもの聞くもの感じるもの、感情や意志でさえ、そこから受け取って自分の内側に取り込んでいます。

たとえ自分の意志で何をするにしても、意思を持つと同時に自分の中に受け入れています。

何かの行為に意志が無くても、やはり既に受け入れています。

それは始めから完結していた・・・とも言えるのかな。

作り出されたものを、ただひたすら受け入れているのが自分を含めたこの世界です。

自分と世界は別物ではなく、受け入れる対象としては自分すらも世界を受け入れるのと同じように受け入れています。(出来るかどうかではなく、すでにそうしてるっていう話です)

だから拒否をすればするほど、遠慮をすればするほど、自分を制限すればするほど、「自分」を苦しめます。

それでもこの世界を受け入れている自分の存在そのものが変わることはないので、気がつかない間はただ苦しいだけという。

良かれと思おうが、嫌だと思おうが、いずれは気持ちの上でも受け入れるようになります。

それはすでにそうなっている流れに、すべてが沿っているからです。

未来の話のように見えて、既に完結しているという話なのだから面白い気がします。

啓示されていることは「意志の上でも受け入れなさい」ということかな。

「それがあなたそのものなのだから」というところだろうか。

意思を持っても持たなくても同じなのです。

ただ、もし何かを求めるなら、自分の本質への答えを常に提示されている様です。

必要な時に必要な分だけ。

もし目安が欲しいというなら「受け入れなさい」って事なのだろうと思います。

与太話の妄想なので適当に読み流してください。笑

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