幸せの先に「全てが受け入れられる世界があるのでは?」という妄想が沸いた 笑

この世界は自分のためにある

今年の運勢というか運命というか、そういうのが人それぞれいろいろあるというのが占いの考え方です。

私の今年の運命というかテーマは「待ち」とか「導き」になっているようで、このテーマに合わせて物事を進めるというか「待ち」をというか、やってます。

良いか悪いか分かりませんが、今年の年初には思ってもみない人生になってて、振り返ると「うわ~」ってなる一方で、まあいつも通りかなとも感じているので平常通りです。

私は「待つ」よりも自分から動いたほうが良いと思う人なので、このテーマはなかなかに厳しいテーマです。

「もどかしい?」みたいな。

次の予定が入ってくるのが運命かな

9月の海沼武史写真展トークショウが無事に終わったので、次は何が来るかな~、そろそろかな~と思っていた矢先に来たのが「里帰り」でした。

「帰ってきて~」と連絡が来たわけではありませんが、帰ることにしました。

この時期か~

家族も「ちょうど良いじゃない」と言ってましたが、うまい具合に出来てるなと思います。

今年の2月までなら難しいスケジュールですが、今なら切り盛りできます。

気が付いたら10年ほど帰ってなくて、「あちゃ~」でした。(連絡はこまめにしています)

里帰り中は時間もあるので、庭のゴミでも拾うかと思い、ちまちまと拾ったりしてました。

身動きが出来ない時間は、人生を考えるのにちょうど良い?

せっかく帰ったのだからとどこかに行けば良いのですが、私は「ここにいること」が必要と感じていたので、引き続き草取りとかをしていたわけです。

するとまあ、今年の夏先に通っていた南アルプスのことを思い出すわけです。

過去の投稿で関連する何か書いたと思うので探したのですが見つからず。笑

南アルプスで何があったかと言いますと、何もなかったんです。

山と川はそこにあるけれど自販機すら近くになく、スマホの電波も微妙な場所で、待機中は目の前を眺めているぐらいしかやることがなかったです。(私の場合)

私が南アルプスでぼ~っと見ていた生の風景↑

目の前の風景を眺めつつ考えていました。

「もしここで生活するとなったら、どんな感じになる?」と。

やりたいかやりたくないかではなく、です。

すると、最小のアクションは食べて寝るだけになるな~ってなりました。

「あれ?」と気が付くことがありました。

すべての人間の「この世界に生きる」の最小アクションは食べて・寝るだけの「身体維持」でしかないのでは?と。

極端な考え方ですが、実際にあるのは「身体の維持」であり、言ってみればそれだけしかない。

更に冷静に考えると、そこには生きる意味もなければ、充実した人生とかも何もなさそうですし、地獄のような日々とか不安でつぶれてしまうとかも無いような感じです。

それが「(何か)あるように見える」のは、「そう見ているから」「そう見ようとしているから」である可能性を否定できません。

「だからなんなの?」となるのですが、「何かそこに(意味が)あるはずだ」と考えてしまっている自分を見つけます。

これらはただの妄想なのだけど、「このせいが身体の維持のため」となると、物事を深刻に考えなくなるかもしれないです。

考えようと思えば考えられますが、「だから何なの?」という思考もセットになってくるので、目の前の物事の見方が変化し始めます。

「無理なものは無理でしょ」みたいな感覚が生まれることもあれば、「しょうがない」という感覚も生まれたりします。

それは諦めといえばそんな気もしますが、どちらかというと自分の中に受け入れる許容範囲が拡がる感じです。

最終地点は「自分も他も何もかも、すべてを受け入れる」になりそう

人は本当の最終になると、何がどうであれ「それで良い」とか「もう良い」という境地にたどり着く気がします。

以前は「人は幸せであることが本質」と言っていましたが、その先があることに気が付いてきました。

「幸せである」ということは、こじつけですが「幸せでないもある」ということになります。

でも、それがさらに進むと、「幸せであってもなくても良いじゃない。どちらも良いよ」という世界があります。

いきなりそこを理解出来れば良いのですが、人それぞれにステージがありますので、今は「今のこと」に向き合っていくので良いです。

ただ、よくわからない状況になっていたり、どうしたら良いか分からなくなっている場合は、とりあえずは人の本質である「今の自分の幸せに気づく」に意識を向け始めると、次の一歩が分かりやすくなるという話です。

さて、余談?が過ぎましたが、今の私は庭のゴミを拾う場面にいます。

まさにこれ↓

地面に落ちた葉っぱをチマチマと拾う作業です。笑

なぜ敷布を置いて剪定をしなかったのか、剪定前の自分と話をしたいですが、まあしょうがないです。

剪定をしたのは私ですし。笑

ちょっと分かりにくいですが、剪定をした木の葉っぱは小さく、地面は砂利があるため葉っぱが隙間に入り込み、熊手やほうきでは取り切れません。

結果として、一枚ずつ拾うのです。

地面に座って。

「やらなければならない」と言われているわけでもなく、他の誰かがやるくらいなら私がやろうぐらいの程度です。

南アルプスで身動きが取れない時よりはマシな気がしますが、気分的には同じです。

だから

・時間の無駄
・ほかにやることがあるでしょ
・何の意味があるの?

みたいな思考が生まれるのは必然かもしれません。(人によりますが)

自分が何を意志するかによって受け止め方が変わると思う

もともと自分がやりたくてやっていることに対してであれば、面倒なことがあっても、私は意味を考えることはありません。

「やりたくてやっている」が全てだからです。

うまくいけばその方が良いけれど、ダメだったらダメでもしょうがないぐらいの話です。

だから、南アルプスでも里帰りでも、そこに居ようとしているのが私であり、そこでどんな感じだったかは関係ない、というのは言いすぎでしょうか。

これ、結構大事な気がするのですが、どうでしょうか。

「自分が意志を持って選択している」が出発点になっていて、その結果は問わないになってるやつ。

大事な気がするんだけど。

と言いながら、葉っぱを拾う「この自分のサマ」を見ていると・・・。

やりたくてやっているからそれで良いし、なんだったらやりたくなくてやっていてもそれで良い、みたいなことを考え始めたんです。

とりあえず、「なんでも良いんじゃない?」という状態です。

みたいなことが葉っぱを拾ってるときに頭をめぐってました。笑

日常生活で周りを見た時に「こうでなければ」とか、「こうした方が」というのはあると思います。

そういう想いもありつつ、出来ても出来なくても、良くても悪くても、快適でもしんどくても、幸せでも不幸でも「まあ良いのでは?」という感じです。(遅かれ早かれ、そこに到達しますし)

なんだそれ?ってなりますが、まあ何がどうでも受け入れてくれる世界があるんじゃないかな~と妄想しているだけのお話でした。笑

こういうのは自分から動き回っていると分かりにくいです。

そういう思考にならないし、そういう思考に意味を感じないからです。

今回のように何となく受け身な感じのする思考をしていても積極性は低くならないですし、なんだったら里帰りを思いついて10時間で出発する(夜思いついたので朝の出発でした)ぐらいの行動力に繋がっています。

自分の感度はぼやけるどころか洗練される感じがするけれど、気のせいかな。笑

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