写真は青山一丁目辺りです↑
「生きる意味」について考えていました。
そういうテーマが目に付いたので。
私自身は「生きる」に意味をつける・求めるのは難しそうだと思っています。
ただ、「生きる」を否定しているわけではありません。
あまり関心が無いんでしょうね(笑)。
「何のために生きるのか?」という「何のため」という意味の部分が「生きる」に付けるのは難しいと考ています。
理由に関係なく「生きる」は存在します。
「生きる」はただそこにあるから意味が付けられない
そもそもなぜ意味を見いだすことについて考えているかというと、人は意味が分かると安心するからです。
意味が分かると安心すると思ってしまっているというのが本当のところで、実は「意味」はリスクでもありますが、これはまた今度。
話を戻して、生きるに意味を見いだしたい(意味づけをしたい)ならそれでも良いし、意味を見いだそうとしなくても良いし、意味が見つからないのが当たり前かもしれないし、なんにせよ「生きる」には良い悪いがありません。
これは「生きる」をコントロール出来ないからです。
死ぬかどうかはコントロール出来る部分があったとしても、「生きる」は無理だと思います。
人の力が及ばない(コントロール出来ない)ことに意味を見つけようとするのは難しいです。
だから「生きる」に意味を求めることも無理があると気がついたわけです。
いろんな考え方があると思いますが、「意味を付ける行為」は人が理解出来るものに対して行っている気がします。
「生きる」というような何かの存在を言葉にする(理解する)のは難しい。
存在はそれだけで完結していますし、「なんで存在しているのか?」に意味を付けることは難しいです。
一方でコントロール出来るものには意味付けがしやすいです。
変化するものは意味が付けられる
何かをする(しない)には「意思」が伴い、意思には意味を付けることが出来ます。
何のためにするのか(しないのか)というような感じです。
何かをする(しない)時に意味があるとか意味が無いとかは、主観です。
だから「これには何の意味があるのだろう」と考えるわけですが、意味が付けられないものにまで意味を付けようとすると危険です。
人は意思を向けることで、その対象を認知します。
良いことであれば良いように、ネガティブなことならネガティブなように、意思を向ければ認知します。
「なんで生きてるんだろう・・・」みたいな意識を持った時に、ネガティブな方に意思が向く可能性もあります。
本来、考えても答えが出ることの無い事柄に対して意思を向けると底なし沼にはまります。
これはよくある話。
一方で「存在」はそれで完結しているので、「存在(ある)」に対して良い悪いはありませんし、「意思」も「意識」ない根源的なものです。
このため存在は変化をしないけど、この世界は可変であり、どのような姿にでも変わります。
その可変の世界に意思を向けるほどに、不変の「存在」から遠のくことが分かります。
何に意思を向けるかで世界が変わる
ここで意思と意識の意味づけをします。
意思は内側からわき出すものであり意識をコントロールすることが出来ます。
意識は意思も含めた周りの影響を受けます。
意思を持たずに意識だけで可変の世界に関わると、もっと良い暮らしがしたい、もっとお金が欲しい、安定したい、良い物が欲しい、好きなことをしたいといったことに、意思を向けさせるようとします。
欲求は、満たされない想いを生み出し、満たそうとする意識を更に高め、その影響を意思が受けます。
無意識のうちに意思は満たされない想いを満たそうとし、もっともっとと求めてしまいます。
「足るを知る」という言葉をよく耳にしますが、「今ある状態に満足をしなさい」という意味もあるのだと思いますが、私的には自分の中にあるものを感じなさいって言ってるのかなと思っています。
「存在」はそれで完結し不変です。
人は不変なものに意思を向けるようになると安定します。
「存在」に対して意思と意識を向け続けるのは、最初は戸惑うと思うのですが、だんだん「何となく楽な気分」になっていきます。
タイトルは「なぜ生きるのか」よりも「なぜ生きる事を考えようとしているのか」に意識を向けると良さそう的な形にしました。
意識は意思によって動かされます。
「なぜ生きるのか?」ではなく「なぜ生きる事を考えようとしているのか」と考えることで、「存在そのもの」に意思を向けさせる作用を持ちます。
意思を向ける
意思を自分の外側の世界に向けるのではなく、自分の内側の存在に向ける。
自分の内側の存在については、この投稿では「生きる」になりますが、これだとちょっと分かりにくいです。
だから私は最近「自分の内側にある優しさ」に意思を向けると良いと思っています。
生きるという存在に優しさは繋がっています。
繋がっていると分かる理由は、優しさが「生きる」から生まれているからです。(ここをもう少し説明したいけれど、今の私の理解では難しい)
その優しさに意思を向けることで、意思に連動する意識も優しさを基準にして動き始めます。
今の自分は「優しさを持っているだろうか」とか、「優しくあるだろうか」と自分に問いかけることが優しさに意思を向けるということであり、優しさに意思を向けることで「優しさ」を基準とした世界の構築が始まります。
意思を持った生き方は、その意思に沿って自分の世界を作っていきます。
意思を持った生き方に「なぜ生きるのか?」という問いは発生しません。
根源に紐付いた意思に沿って生きようとし始めるからです。
だから、生きる事に疑問を持ち始めたら、自分の意思が迷子になっていると思って良いです。
意思を根源に紐付けるか、自分の外の世界に紐付けるか、あるいは意思無き意思として放置してしまうか。
何に対して「意思を持つか」で世界が全く違ってくる。
私の言葉がうまくないので伝え切れていない部分もあると思うのですが、こういうことを良く考えています。
悩んだ時はご相談ください。
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